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オリクスとクレイク



オリクスとクレイク
マーガレット・アトウッド
早川書房/3150円
2010.12.25刊

アトウッドの作品では『昏き目の暗殺者』や『またの名をグレイス』のような“三面記事”的な要素を持ちながら、語りの多層性でもって、ぐっとその人物に迫っていくタイプの小説を愛読していたが、この『オリクスとクレイク』を読んで、アトウッドとはなにより『侍女の物語』の作家であったのだと思い出した。
『侍女の物語』は、近未来の北米を舞台に、キリスト教の原理主義者がまさに「産む機械」として女性たちを徹底管理/抑圧するディストピアを描く。何度も読む手が止まるほど、「侍女」として従順を装うオブフレッドの恐怖と絶望はリアルだった。

そしてこの『オリクスとクレイク』もまた、徹底的なディストピア小説といえる。
冒頭、ほぼ人類は死に絶えているが、かろうじての生き残りである“スノーマン”が海辺で目を覚ます。腕時計はすでにかざりでしかなく、そこには時間という秩序も、文明も、食料もない。
“スノーマン”はかつてジミーと呼ばれた青年であり、クレイクという親友や、オリクスというガールフレンドがいた。
小説は、“スノーマン”の現在を語る章と、ジミーの回想が語られる章とが交互におかれる。ジミーの時代、一家がまるで高い城壁に守られた王か侯爵のように、セーフティな“機構”内で暮らしていたのは、両親が優秀な科学者だったからだ。サプリメントで栄養を管理し、人間以外の動植物の多様性を否定し、すべてがコントロール可能だと思われていた、超高度文明社会。
それがなぜ一転、“スノーマン”しかいない無政府状態の暗黒世界に陥ったのかがだんだんと解き明かされていくわけだが、読む者は、このアトウッドの描く物語を、荒唐無稽なSF、あるいは寓話と笑い飛ばすことはできないだろう。

遺伝子工学はパンドラの函を開け、クローン生物はとっくに現実のものになった。
異常気象は、地球上のすべての人を不安にさせている。
オーウェルの描いた『一九八四年』はすでに通り越した。
私たちはすぐれた近未来小説によって照射された現在に生き、想像力をたくましくする。

# by enamiko | 2011-02-20 23:35

話の終わり



話の終わり
リディア・デイヴィス著
岸本佐知子訳
作品社/1995円
2010.11.30刊

とんでもなく不思議な手触りの小説だった。
主人公は、30代半ばの女性大学講師。翻訳も多く手掛け、小説も発表し、いまはヴィンセントというパートナーと彼の父親とともに住んでいる。
彼女は、いま、ひとつの長い小説を書きつつある。何年か前に終わってしまった恋、それも12歳年下の学生との恋が中心的主題だ。
〈もし誰かにこの小説のテーマは何かと訊ねられれば、いなくなった男の話だと私は答える〉。

しかしそれは、整理された「物語」のかたちからは程遠く、とりとめもないし、時系列といったオーダーにも沿っていない。
ときに、当時記したメモを頼りに、それでも日記としてではなく、過去と現在を往還するようにして、終わってしまった恋と、終わりの受容の過程を記していく。
〈彼と別れてから振り返ってみると、あの始まりは、その後に連なる無数の幸福な瞬間の最初の一つだったというだけでなく、すでに終わりを内包していた。私たちが大勢の人々に混じって座り、まだお互いに何も知らないまま彼が私のほうに顔を近づけて耳元でささやいていた、あの時の店の空気の中にすでに終わりは忍びこんでいたし、店の壁も終わりという名の素材でできていたように思えるのだ〉。

彼女は、記憶をさぐる。ひたすらさぐる。
出会った日はどうだったのか。ケンカをした日はどうだったのか。キッチンでのやりとりは、パーティでの態度は、電話でかわした言葉はどうだったのか。
そこに、彼女自身と彼のどんな感情が付随していたのかを、解剖医なみの観察眼で、情緒を排して記していく。
書いている〈現在〉の私の心理に忠実であろうとするあまり、あるできごと、ひとつの事実が、何度も繰り返されて(つまりもう読者は知っているのに)記されることもある。
過去の出来事や心情を厳密にいま語るとはどういうことか、という叙述の実験のような小説を、彼女は書くことを望んでいるのだ。
〈三人称ですら生々しすぎる感じがして、もっと遠い人称がほしいと思うようになった。だが四人称などというものはなかった〉。

ひいては著者のリディア・デイヴィスの眼目もそれだったともいえる。
(うまく説明できているか心もとないが、)これほどにメタ・フィクション的な、そしてなおかつ哀切な恋愛小説はそうはない。
小説をめぐる小説として、あるいは記憶をめぐる小説として、ひとつの達成と感じ、興奮しながら読んだ。

# by enamiko | 2010-12-10 04:35

仕事の告知



12/7発売 
「新潮」1月号 において、山田詠美『タイニーストーリーズ』の書評を書きました。

12/7発売 
「すばる」1月号 において、辻原登『東京大学で世界文学を学ぶ』の書評を書きました。

12/8発売 
「anan」誌の小特集内において、村上春樹『ノルウェイの森』についての雑感を書きました。

# by enamiko | 2010-12-09 11:33

イビクス



イビクス  ネヴゾーロフの数奇な運命
パスカル・ラバテ 著
古永真一 訳
国書刊行会/2625円
10.11.05刊

告白すると、わたしにはマンガの素養がいっさいない。単行本も持っていないし、ほとんど読んだこともない。思い出せる唯一の経験は、女子中時代に、クラスでまわってきた『ガラスの仮面』を当時刊行されていたところまで読んだこと。それも、わたしが借りると読み終わるのが遅いから渋滞するといって、次の順番の人に飛ばされたりもしたものだった。

そんなわたしでも、たいへん興味を持って読むことができた本がこれ。
フランスのコミック「BD(バンド・デシネ)」の翻訳である『イビクス』だ。

本自体は大きなサイズで、厚さもけっこうある。赤黒でデザインされた素敵な表紙をひらくと、そこからはモノクロの濃淡だけで描かれた絵によって、物語が展開していく。
コマ割りはおそらく、日本のマンガよりもシンプル? つぎにどこに進めばいいかわからない、といったことはないが、左から右に進むので、もしかしたら日本のマンガに慣れた目には最初、違和感があるのかもしれない。(日本のマンガって、小説と一緒で右から左頁に進みますよね??)

ストーリーもまた不思議で、ロシア革命の混沌とした時代に、なんだかちょっと顔が三角形気味の平凡な会計士であるところの男が、ジプシーの占い師の預言に導かれるように、南へ逃げながらサバイブしていくというもので、大げさなヒーローや大恋愛なんかは描かれない。
ただしサバイブものといっても、全体的に温度が低めというか、画風に暑苦しいところが一切なくて、そこがなんだか物語の幻想的なトーンともマッチしているのだ。

しかし、こういう古い時代の物語を材にマンガにするとは、またオツな……と思っていたところ、じつは1924年に発表されたトルストイの『イビクス』という中編小説を原作に、漫画家パスカル・ラバテ(61年生まれ)がマンガ化したのだと、訳者あとがきにはあった。
「トルストイに『イビクス』なんて作品あったっけ?」と思われた博識な方。
そう、このトルストイは『戦争と平和』のレフ・トルストイのことじゃありません。
というか、ラバテ自身、古本屋で見つけたこれをレフ・トルストイ作と勘違いして購入。間違いに気付きつつ、読んでみたら面白かったので、マンガにしてみたという、驚きの経緯を経た作品とのこと。

とにかく日本的なマンガとはまったくちがう味わいがあって、ちょっと中毒性すら感じられるほど。ちなみにこの国書刊行会の「BDコレクション」は、12月、1月にもちがう作家の作品が邦訳刊行される予定らしく、今後も注目しながら、中毒性を高めてみたい。

版元の「特設ウェブサイト」は、こちらへ

# by enamiko | 2010-11-23 23:55

お別れの音



お別れの音
青山七恵
文藝春秋/1300円
10.09.29刊

 すこし前に、文藝春秋社のPR誌「本の話」で書いた書評を、アップしておきます。
 今年刊行された本をつらつらと思いだしていて、これけっこう好きだったな、と思ったので、その備忘録として。
 WEBで読むには、ちょっと長めの文章で、恐縮なのですけれど。

*****

 面白い小説、と聞くと、ついどんなめくるめくストーリーが展開されるのかと想像しがちだが、話の筋らしい筋、起伏らしい起伏もないのに、やっぱり面白い小説としか言えない作品はある。本書に収められた六つの短編小説は、みなそうだ。

 たとえば最初の「新しいビルディング」を読んでみる。
 描かれるのは、入社三ヶ月のマミコが、ほとんど口もきいたことのない先輩社員から妊娠と退社の報告を受け、引継ぎをし、送別会においてもほとんど話さないまま、彼女の最終出社日を迎える、という日常のスケッチである。会社勤めの経験のある読者ならにやりとするリアルな細部――時間差でとる昼休憩、送別会の凡庸な挨拶など――をアクセントに、全体的にはシンプルで端正な文章で綴られる。
 粗筋にしてしまえば愛想の少ないこの物語は、しかし読むと面白い。ただ、面白さの核を取り出し、これがその理由と、人に説明しがたいのもまた事実で、答えを求め、次の作品を読み進めることになる。

 続く「お上手」も、一篇めと同じく若いOLが語り手である。床材に難のあるオフィスに勤める彼女は、ある日傷ついたヒールの靴を修理店に持ち込む。後輩に「ああいう人が好きでしょう」と指摘されて初めて、修理屋の男を意識し、その後も折を見ては熱心に観察を続ける。
〈この男にはなんのとっかかりもない。(中略)優しそうだ、とか、おっかなそうだ、とか、神経質、無気力、温厚、剛健、どれにも当てはまりそうにない〉などと。
 
 ここでたいていの読者は、主人公と修理の男との間に生まれるロマンスを期待=予想するにちがいない。
 小説において近づくものは関係しがちであると“近接の原理”を説いたのは、リカルドゥーというフランスの文芸批評家だったが、彼の説など知らずとも、小説内で主人公が異性と知り合ったなら恋はつきものと、読者の胸は逸る。しかし、その予想をするりと裏切るように青山七恵は二人を恋に落ちさせない。
 いわばお約束のドラマ性を退け、OLが靴を修理するだけの話(!)に仕上げることには潔さすら感じるが、ではこれがなぜ面白い小説たりえるのか? 
 おそらくその秘密は、青山七恵の独特の「視線」にある。

 思い返すに、デビュー作の『窓の灯』では、窓ごしに向かいの住人の生活を覗き見ることを日課とする女性が描かれたし、芥川賞受賞作『ひとり日和』の若き主人公・知寿は、同居する七一歳の吟子さんの台所の引き出しの中身や、老いらくの恋のさまをじろじろ見ることで、自身の青っぽい孤独感をやがて克服していった。
 見ていないようで見ていて、気のないふりだけど興味津々。こうした非対称のまなざし――正面から相対するのでも、横並びで同じ方向を向くのでもない、いわば斜め四五度からの視線――は、本書でも申し分なく発揮される。

 「新しいビルディング」で、先輩社員との最後の日、マミコは彼女のせんべいの食べ方を観察し、こっそり自分も真似をする。そして、向かいの建設中のビルの名前に関して、「ヒグチさんなら、知ってるかと思って。よく見てるから」との彼女からの問いには、無視をきめこむ。一方的な観察者であったはずのマミコの、自分がなにを見ているかを見られていたことに対するわずかな動揺が、さらりと、しかし的確に描きだされていて、はっとする。
 「お上手」でも、視線の非交差が、恋を遮断する。
〈横長の鏡の前で、セーターの色といつもとまるきり同じようにした化粧の具合を心配しながら、あの男のことを考える。誘われて男と食事に行く自分と、同じ時間にひとりきりで他人の靴修理をするあの男を、鏡の前に並べてみるのは、悪くなかった。悪趣味な想像だとは思ったけれど、その後ろめたささえ、悪くなかった。〉 
 いくら想起しても、鏡にうつるのは自分の姿でしかない現実。まなざしの非対称性……。

 本書にはこれら二篇の他にも、大学の食堂で働く主婦が、いつもわかめうどんを注文する女学生を熱心に観察し、さらには尾行まで行なったことで、ひとり妄想を膨らませていく「うちの娘」や、かつての同級生との間にメールのやりとりだけで恋心を再燃させた男が、三年ぶりに再会した彼女に思いもかけなかった事実をつきつけられる「役立たず」や、言葉の通じないナディアと通訳役の友人とのスイス観光中、腹痛に見舞われ続けた男の旅の記録「ファビアンの家の思い出」などが収められているが、そのいずれもが“目に見えるもの”と、妄想や記憶を含む“イメージ”とがせめぎあう瞬間をとらえている。

 視線とは、つまるところ、関係である。大きな起伏ある物語が構築されないかわりに、人と人とがある関係性を紡ぐさまが、繊細なレース編みのように描かれている。平凡な登場人物たちが、なにかを見つめ、感情をわきたたせ、関係を築きながら、しかしそれは必ずしもハッピーエンドとならずに、消えていく。あるいは、よく知っていたはずの人間のまったく知らなかった一面を垣間見て、他者の不気味さを実感する。
 こうした小さな調和と非調和の運動こそ、人間の営みの本質だと思い出させてくれるのが、本書の魅力なのだろう。視線からはじまったある関係性の行く末をじっと見届ける探偵のような目と、その関係性が消えゆく際のちいさな音を聞きもらさない調律師のような耳を持ち、その推移のさまをユーモアをまじえて小説として定着させつづける青山七恵は、一見したその作風の印象とは逆に、頑固で、不穏当で、そして言語表現の難しさに挑む作家(ルビ=チャレンジャー)なのではないだろうか。
 だから彼女の小説は、面白い。

# by enamiko | 2010-11-18 23:50 | 日本の小説

少女



少女
アンヌ・ヴィアゼムスキー著
國分俊宏訳
白水社/2520円
2010.10.30刊

祖父にノーベル賞作家を持つ良家の娘が、17歳で、老齢の映画監督に見染められ、ひと夏を主演映画の撮影に費やす。その夏、彼女は、幾つもの意味で大人になった……。

こう2センテンスでまとめると、胸がキューンときしむような気がするが、その少女がアンヌ・ヴィアゼムスキー、映画監督がロベール・ブレッソンならどうだろう。ときは1966年、撮られた映画は『バルタザールどこへ行く』だった。
そして少女は晩年になり、この夏の思い出を回想録(メモワール)的小説に仕上げて、発表する。ただし小説である以上は、そこに書かれるすべてが「ほんとう」かどうかはわからない。

ブレッソンはこのとき63歳で、すでに巨匠としてある映画スタイルを確立していた。彼を尊敬し集まってきた若い映画関係者に対しては、ほとんど独裁者のようにふるまい、とりわけ撮影監督とは衝突がたえない。
ヒロインとして迎えたアンヌが、ほかの若いスタッフと談笑したりランチしたりするのも嫌い、パリ近郊での映画撮影中、ほかのキャスト・スタッフは毎日パリの自宅に戻るにも関わらず、アンヌとふたり、近くの民家に住まいを借りる。

アンヌが放つ輝くばかりの、というか、残酷なまでの若さを前に、ブレッソンは欲望と絶望を同時に抱く。嫉妬を隠そうともせず、いやがらせをそうとわかるかたちでアンヌに示し、もだえてみせるのだった。
しかしこれを、ブレッソンの子供っぽい性格ゆえと考えてはならないのだろう。
アンヌに、自分が他人に欲望させる人間であること、さまざまなかたちの欲望を一身に受け止める存在であることを、実地に教え込んだともいえるのだから。つまり、映画女優になるためのレッスンである。
げんにアンヌはこう述懐する。
〈突如として自分が誰かのために存在し始めたという理由によって、私は初めて自分が存在していると感じるようになっていた。ことの順番が逆になっているという意味で、それは文字どおり私にとって世界がひっくり返るような体験だった〉。

そしてアンヌは、まさにこの他人の欲望を獲得することで、いち高校生から映画女優へと変身を遂げ、のちにゴダールやパゾリーニの作品にも主演する、スター性を獲得していくのだった。

この小説にはいくつもの印象的なシーンが描かれるが(アンヌが現場にいた青年と計算ずくで関係を持つところ、母親と決定的な決別をするところ……)、なによりかわいらしいのは、ブレッソンとふたり衣装を買うためにデパートのブティックを訪れるシーンである。
店員に孫と祖父に間違えられながらも、彼女には大きすぎるセータ、田舎っぽいスカートなどをつぎつぎと求めるふたり。
さながら映画のワンシーンのように、常軌を逸した愉悦が伝わってくる。
このあたりは、小説家アンヌ・ヴィアゼムスキーの、腕のよさが光るところだ。

**********

ところでアンヌは、この秋、来日する。
イベント・スケジュールは、それぞれこのようになっている。

2010年11月17日(水)20時15分~
会場:東京日仏学院
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2010年11月18日(木)14時00分~
会場:東京・丸の内カフェ
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2010年11月18日(木)18~20時
会場:東京大学本郷キャンパス・法文2号館2階1番大教室
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アンヌ・ヴィアゼムスキーという、美と才能を持ちあわせた女性をじっさいにナマで見てみたい気もするし、本書で書かれ、また映画のなかでみせる、「少女」の姿のままに記憶していたい気もするのだった。



# by enamiko | 2010-11-11 23:15 | 翻訳小説

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